伊納隧道と旧線(伊納ー納内)と神居古潭脱線事故

旧線・廃線

こんにちは、銀ふくろうです。
実はこのブログ、4年近くもあるんです。もちろん記事は少ないので歴史は薄っぺらいものですが。
そんなクソブログは検索してもそうそう直ぐには出てきません。ただ一つだけ比較的マシな記事がありました。


一番下のやつです。旧ブログ時代のものですね。今や出てこなくなりました。
一応この記事自体は残っています。(その記事のリンクはここ
…まあ重箱の隅をつつけば他にサイトがないから出てくるってわけです。それでタイトルの「伊納隧道」ですが、隧道というのはトンネルのことを云います。伊納は地名ですので、これは伊納にあるトンネルということになりますね。


じゃあ伊納トンネルと云えばいいじゃないかということになりますが、「伊納トンネル」は伊納隧道ではありません。同じ場所に存在する別のトンネルです。
…なんか凄く見せるためにこう表現しましたが、単に伊納トンネルは伊納隧道の子供(二代目のトンネル)で隣にある、というだけです。
何でそんなものということですが、まあ私は『歴史でめぐる鉄道全路線No.12』見た親トンネルに専ら興味があって実際に見に行った訳なんです。どんなのかはリンク先の記事でもGoogle画像検索でも見ることができます。かっこいいぞ。


それで一体何を考察したのかといいますと、このトンネル親子は二世代に分けられてそれぞれ使われていたのですが、いつ親トンネルが役目を終えたのか私は当時知らなかったので、それがいつだったのか三級品の頭をミキサーして書いたものでした。
記事の内容を要約しておくと、
1.子トンネルはコンクリート製なので1920年代以降
2.孫トンネル(三代目。三兄弟1969~)が複線目的なので親子丼(ネル)は無い
3.1932年にこのトンネルの奥で川に車両が転落する事故が起きた。親トンネルは子トンネルの川側にいる。

以上より3の事故を受けて1930年代中盤に子トンネルにバトンタッチしたのだろう、というものです。

そういえば伝えるのを忘れていましたが、この親子は産廃トンネルです。観光資源として今は生きてるのですが、ここ10年くらい?落石警戒により通行止めとされ、このトンネルに立ち入るにはバリケードを越える必要があります(非推奨)。サイトには平成33年度再開と書いてありますが…そういや今年だな。

で、これで紹介しただけでしたら前の記事の更新にしろということになりますね。ですがこれ、間違いでした。
流石に間違った情報を垂れ流しっ放しは不味いので、ダメを押しておこうと思います。
それぞれの事項が事実なのは間違いありませんが、その結論を出すには証拠が足りず、飛躍していると言えるでしょう。

それで何故今更になって気付いたかと言うと、自己満足で検索結果画面を見ていたら(画像一枚目)、一つ上の土木学会のサイトの紹介文に子トンネルは1928年前後に掘削されたと書いてあった、これに尽きます。

それにしても土木学会でも「前後(サイトでは『昭和2,3年頃』)」と少しぼかした表現になっているのが気になりました。詳しく突き止めたいので旭川市立図書館のリファレンスにお尋ねしようと思っているのですが、取り敢えず自分でも(お家の範囲で)調べてみました。

推測に用いた根拠が正しいとして、親子丼(ねる)がないと分かった以上、トンネルを切り替える際に線路の範囲も変わるはずですから、線路の長さも変わるはずです。
そこで昭和三年の鉄道統計資料第二編(鉄道省、国立国会図書館デジタルで閲覧できます)を見てみると、線路増減表というところに
神居古潭—伊納 (減)0粁037米
とありました。更に改良工事工程表という所には
神居古潭伊納間急曲線改良
着手 (昭和)3.2 竣工(昭和)3.12

と恐らく区間距離、つまりは線路の長さが変わった理由と見られる工事の記録が残っていました。
確か前にお伝えしたかもしれませんが、このトンネルを通っていた旧線は恐ろしいほど川沿いにあります。そして上流特有の深い川に迫る急斜面との間にも接するため、絶景の車窓だったのは言うまでもないでしょう。

これは親トンネル時代に描かれた地図です。親トンネルは地図にあるアヌトラシナイのすぐ右の📍みたいなマークの当たりにあります。トンネルがより川に寄っているために(しかもトンネルは⏝の向きにカーブしています)、トンネル出口からの⏜向きのカーブは高い脱線の危険に晒されるわけです。深い川に接した線路での脱線は救助不可能な水難事故の可能性があります。(1932年の事故はまさに現実となったものです)
これを解決するためには川に柱を建てるか、カーブの手前までに以前よりも内側へ線路を配置させる必要がありますが、親トンネルのカーブが固定されています。川は流れが急で柱を建てられません。そのために無理やり斜面線路を埋め込むために、子トンネルが建てられたのでは無いでしょうか。(あくまで推測です。)
ちなみに改良後の路線の形がよく分かる空中写真がありました。

先程の地図の形よりかは小さなカーブが減り、大きいが比較的緩やかなS字カーブになっています。
ちなみに何度が述べました1932年11月4日の神居古潭付近での脱線事故ですが、唯一のソースが戦前に統廃合された旭川新聞らしく、旭川市立図書館にマイクロフィルムで保管されているらしく、今は詳細について調べることができません。また、事故が神居古潭駅より伊納側で起きたのか、あるいは納内側で起きたのかが分からないので、これを子トンネルの新設の理由としてあげるには些か不十分なものがあります。
これについてはリファレンスに頼るしかなさそうですが、(わかり次第この記事に追記します)恐らく事故があったのは伊納側と推測しています。一応その経緯となる考察を説明しましょう。
これまたソースが未確認の旭川新聞によると、駅付近で崩落した岩盤に汽車が衝突して転落したというのが事故の内容でした。
岩盤崩落という事は斜面の下の部分を岩の津波が押し寄せる訳ですからそこにあった線路地面諸共メチャクチャになるはずです。まずは土地、あるいは河岸の復旧工事をし、土台が出来てから線路敷き直しをしなくてはなりません。
この1連の復旧に関係する(と推測される)工事は以下a~cの通りです。
(いずれも昭和年.月)
a 7.10~8.11納内近文間軌條(線路)更換
a’ 7.10~7.12神居古潭伊納間軌條更換
b 7.12~8.1 函館本線 407粁470米付近外3ヶ所護岸工事

c 8.9~8.12神居古潭近文間落石防止柵新設工事

納内~近文というのは神居古潭~伊納を含んだ約20キロメートルの区間を指します(因みに神居古潭から伊納は9キロ弱です。)。
また、407粁400米という距離は函館駅からの距離で、神居古潭駅が406.1キロメートル、伊納駅が415.0粁となっていました。(国鉄監修時刻表 1964年10月号より)つまり神居古潭駅から伊納駅方向へ1キロ半移動した地点に当たります。
これらの工事から推測したシナリオはこうです。

1.事故が起こる前から近文~納内間で定期的な性格を持つ線路交換aを行っていた。
→降雨・豪雨に影響を受けてのものと考えられる。
(ページ最後の追記を参照。)
2.ところが、工事途中で死亡事故にも繋がる岩盤崩落が起き、工事区間の一部である神居古潭~伊納が運行不可能になってしまった。この路線は札幌と旭川を結ぶ重要な路線のために、優先して集中的に線路を敷き直し、復旧させなければならなくなった(a’交換工事)。
3.また、この崩落に巻き込まれた崖が欠損し脆くなっているために護岸工事bもa’に付随して行った。
4.a’が終わったあとも、引き続き定期としてのa工事は伊納~神居古潭以外の区間で行われ、翌年に終了した。
5.また復旧とは直接関係はないが、運行の安全為に、翌年落石防止柵を設置する工事cが行われた。


こんな感じです。この推測の至らぬ点は数多くありますが、その中で一つ挙げるとすれば事故が起きてから1ヶ月の間函館本線の一部が運休のままだった、ということになるのにも関わらず、そのような資料が見つからなかったことでしょう。旭川新聞を見ないことにはわからない事だらけですね…。もし何かご存知の方がいらっしゃいましたら教えて頂けると嬉しいです。
~~~

追記 2021.3.12

2016年撮影。
2021年現在廃止駅として話題となっている宗谷線のものと比べると話題性は乏しいようである。


伊納駅廃止日になりました。
この記事を書いて以降、リファレンスには行きませんでしたが図書館で「旭川市史」と伊納駅付近の地図(鉄道については明治42・昭和6の頃のものを記入している)を入手することが出来ました。過去記事でも話した通り国土地理院の無料サービスでは不明瞭なものしか入手出来なかったので大助かりです。
それでます旭川市史から分かったことですが、事故のあった昭和7年についてその8月から9月にかけて連続して降雨が見られ、このうち

①8月31日午後一時~9月1日午前六時
②9月10日
③9月13日~9月14日
の間では豪雨が見られたとのことでした。

このうち②の豪雨ではその影響を受け、午後一時から翌日の午前6時まで運転を見合わせた他、近文旭川間の「第2石狩川鉄橋」の橋台石垣が欠潰する被害が出ています。したがって7年10月から8年11月にかけて行われた軌条交換はその豪雨などによって決定された事なのではないでしょうか。ただこの豪雨による伊納神居古潭間での直接的な被害は確認出来ませんでした。

その一方で脱線事故に繋がった岩盤崩落の原因については「(岩盤を構成する)蛇紋岩中の粘土が融けたため」と記述されていました。蛇紋岩とはマントルを構成しているとされる「かんらん岩」が水などによって変質したものです。無数のひび割れがあるためにその隙間に雨水が入りやすく、これによって風化されるために更にボロボロになって崩壊しやすくなるようで、蛇紋岩地帯ではトンネル工事が難しいなどとされています。実際に上川鉄道として敷設された際にはその予算の大半を伊納隧道ともう一つの隧道をこしらえるのに使ったそうです。

何れにしても線形改良工事をしたとはいえ、1969年の複線化工事までこの区間は危ない所を走っていたのは確かなようでした。

続いて地図についてですが、これは見てもらいましょう。
まずは明治43年の区間改良工事前のものからです。

山の描写がかなり雑い。川付近の93.31と描かれた表示の真上のトンネルが伊納隧道。

神居古潭駅付近の線形といい神居古潭伊納間の真ん中らへんのカーブといいかなり急です。
次に線形改良工事後の昭和6年(鉄道の補正後)の地図です。

中心部分がどうしてもボケてしまった。もし直ったら上げなおします。

明治の地図と比べてみると川の護岸工事が進んでいることや神居古潭でてすぐのカーブがS字2つのような急だったものから一つのS字カーブへと変化し、伊納隧道すぐ東側のカーブが川により近くなる形で緩やかなものに変化したのが分かると思います。
また、古い方の地図には描かれてなかった神居古潭駅手前(納内駅より)の隧道が描かれています。明治より2つともあったはずなのですが、古い方に両方載ってない理由は分かりませんでした。また新しい地図においても春志内に作られた新隧道は描かれてないようです。

ちなみに伊納隧道親子の差異についてはトンネルの南隣にある護岸部分とのスペース位でしか表現されていません。というか明治地図の信頼性がイマイチである以上、違いについては表現するつもりが無かったのかもしれません。(少なくとももう一世代、新しい地図が見なくてはいけませんね)うーんガバです。


長くなりましたが以上で考察を一旦締めます。また新しい地図情報を入手したら更新してみようと思っています。とはいえ、時期が時期なので何時まで待つかはわかったものではありません。取り敢えず前の記事よりマシになった情報を提供出来ていればいいなあと思っております。
それではまたお会いしましょう。
最後までご覧頂き、ありがとうございました。



【参考文献】
『昭和二年度 鉄道統計資料 第二編 建設 工務 工作 電気』鐵道省1932年 p170,268
『昭和三年度 鉄道統計資料 第二編 建設 工務 工作 電気』鐵道省1932年 p104,172,185
『昭和七年度 鉄道統計資料 第二編 建設 工務 工作 電気』鐵道省1938年 p103,104,180
『昭和八年度 鉄道統計資料 第二編 建設 工務 工作 電気』鐵道省1938年 p113,114,190
『時刻表復刻版戦後編2より 1964年10月号』JTBパブリッシング 2000年4月1日p406

国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/)より使用

『日本応用地質学会 Q&A』https://www.jseg.or.jp/chushikoku/Q&A/3-07.pdf
『北海道の鉄道』田中和夫 北海道新聞社 2001
『旭川市史』旭川市(第7巻)旭川市史編集委員会(第1~6巻)1959~1973年
『日本国有鉄道百年史9』日本国有鉄道 1972年
『旭川 旭川10号』陸地測量部(1911年測図)/地理調査所(1916年測図)

コメント

タイトルとURLをコピーしました